2017年5月15日月曜日

10.オジイチャンをオジイチャンと確認するまで


かおるが一才四カ月の頃、夫の実家を私の父が訪れたことがありました。そのとき、私とかおるはたまたま夫の実家に遊びに行っていましたので、そこに私の父が訪ねてきたという形になりました。
 
 

「オジイチャンだよ 」


かおるは、応接間に野方のオジチャンの姿をみつけました。ところが、いつもすぐにオジイチャンのところにとんでいくかおるが、皆に「オジイチャンだよ」と言われても一向に近づかないのです。それどころか私の手を引っ張って茶の間に戻ってしまったのです。二、三分たって今度は、私の手を引っ張って応接間の入り口まで行きました。が、中には入りません。

しばらくオジイチャンをみていましたが、また戻ってしまいました。オジイチャンは知らぬふりで皆と話しています。何分かたってまた、私の手を引っ張って応接間の入り口まで行き、今度は少し中に入りました。しばらくしてまた茶の間に戻ります。
 
 

ほんとにオジイチャン?


 次は、応接間の中まではいりました。そしてさっきまで握りしめていたオモチャの自動車や置いてあった積木で遊びだしました。場所は先ほどより少しオジイチャンに近いところでした。そのうち、自動車がオジイチャンの足もとに行ってしまいました。かおるはオジイチャンの前を通って自動車をとりに行きましたが、オジイチャンには知らぬふりで、通り過ぎてしまいました。おやおやとみていると、次は、オジイチャンの隣りの椅子によじのばりました。そして背後の壁にかけてあるボードに色とりどりのマグネットをとったりつけたりして遊び出しました。オジイチャンの方を見るともなく見ているようです。そうしているうちマグネットが一つ、オジイチャンのところに落ちました。オジイチャンはそれを拾ってかおるに渡しました。するとかおるは、実に自然な態度で受けとり、そのままオジイチャンの膝の上に載ったのです。かおるがオジイチャンを発見してから約一時間が過ぎていました。
 
 
 

1歳児の観察行動


 部屋には夫の両親と妹たち、私の父と弟の妻子らがいましたが、この間、皆つとめて知らぬふりで特に誰も無理にかおるとオジイチャンをなじませようとはしませんでした。ですから、これはすべてかおる自身が生み出した行動といってよいでしょう。
かおるは、いるはずのない場所にオジイチャンらしき人の姿を見出しました。いつも和服を着ているオジイチャンですが、この人はグレーのスーツを着ています。この人は、本当にオジイチャンだろうか。かおるは、その人がいつものオジイチャンであるか実に用心深くさぐり、それが確かにそうであることを見きわめたとき、はじめて膝の上に乗ったのです。オジイチャンと思われる対象を、遠くから、また右から左から前から、さらに接近して見るという、その観察行動は、あたかも野生動物がはじめてのものにふれたときの行動を見るようでした。それはその場に居合せたもののほとんど共通の思いでした。

 

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このときから1年後に、この観察行動について私は、「一歳半にして、こうした観察をする方法を生み出す力が既に育っているのかと驚いた」と書いています。しかし今は、これはむしろ動物としての人間の本来の力であったのではないか、と考えています。人間は生まれたときはオッパイを飲むことと排泄することしかできません。そこから始まり、ほとんどすべてを生活し行動する中で獲得していく。まさに人間は「学習する動物」です。そのために人間の脳は、本質的に主体的に情報を取りに行くという性格(働き方)をもっています。幼い子どもが親に「あれなあに、これなあに」と聞くのはそのためです。
このときのかおるの行動もそれと同じ類型の行動だったのではなかったかと思うのです。
 本来子どもは、自分でそれが安全か否か、また何であるか、そういうことをを調べる力、調べようとする性格があるのではないか。それを大事に育ててやりたい、と考えます。あまり教えすぎ、与えすぎは、未知のものを自分で調べ切り開いていく、そういう力を子どもから奪うことになってしまうのではないか、そういう気がしています。