2017年3月16日木曜日

9.おじいちゃんの“まずいアメ”

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 子どもが言葉を習得していく過程は、実に発見が多く、おもしろい期間であったと思います。
 私は2人の子に、いわゆる赤ちゃん語は使いませんでした。子どもが自然に言葉を覚え使うようになる過程に興味があったからです。結果、赤ちゃんは自然と「赤ちゃん語」になるのだということがわかりました。

 たとえば、私たちは「パパ」「ママ」ではなく、「おとうさん」おかあさん」という言葉を使っていましたが、娘は2歳ぐらいまでは、父親のことを「タータ」と呼び、私のことは「アーチャン」と呼んでいました。周りの誰もその言葉は使わなかったので、娘自身が聞き取った音(おん)を、自分が表現できる音で表現した言葉だったと考えられます。
 その表現に対して、こちらは合わせることもなく、また娘の言い方を直したということはありませんでしたが、保育園に行くようになった3歳のころにはもう「おとうさん」「おかあさん」というようになっていました。

 まったくわけのわからない状態から、子どもは、生活の中で使われる言葉を繰り返し聞いて、その意味を把握し、約束事をつかみ取り、使っていきながら言葉を獲得していきます。その過程では誤用も多々あり、それが親をあわてさせたり、周囲に笑いをもたらしたり・・・


≪1989年12月~≫

 耕平(満2歳にあと少し)は、“野方のおじいちゃん”(私の父)が大好きである。
 おじいちゃんも、どこかひょうきんな耕平を大変かわいがってくれていて、枕元にいつも耕平の写真を置いている。
 おじいちゃんは病気で、近頃は奥の部屋にいつも布団が敷いてある。そしてその枕元には、おじいちゃん愛用の文房具や、眼鏡やらの必需品が置いてある。その中の一つに缶入りの浅田飴がある。青い線の入ったステンレスの丸い缶で、ミント味のアメが入ったあれだ。
 おじいちゃんは呼吸器系が弱いので、よくその缶からアメを出して口に入れている。
 耕平はそれに目をつけた。

 「それなあに?」
 「アメだよ」
 「ちょうだい」
 おじいちゃんは、まだ2歳前の耕平にはミント味は無理だと考えて言った。
 「これはね、まずいアメなんだよ」
 「ちょうだい」
 あくまで要求する耕平。
 しかたない。なめてみればわかるだろうと、おじいちゃんは一つ取出し、耕平にやる。

 ところがどっこい、耕平はその味をいたく気に入ってしまったのだ。
 一つなめ終わってしまうと、おじいちゃんにせがんだ。
 「もっと」
 「おおそうか、耕平も好きか」
 おじいちゃんは喜んで、耕平にもう一つやり、自分も一つ口に入れる。二人はアメ友達になった。

 それ以来、私が耕平を連れて実家に行くと、耕平はすぐにおじいちゃんのところに飛んでいく。そして言う。
 「“まずいアメ”ちょうだい!」
 まずいアメという名前になってしまった浅田飴。二人は一緒にアメをなめている。耕平は言う。
 「“まずいアメ”って、おいしいねえ」
 かたわらで、おばあちゃんが笑っている。
 

2017年3月14日火曜日

8.2歳児の記憶 +++

 長い実験の結果、幼児期の記憶も残せることがわかった。
 記憶を引き出し続ければ残るのである。
 「記憶」と「記憶を引き出す回路」は使い続けることによって、保持されるのである。
 「記憶」そのものは永久的に残るという説もある。ただ、それを引き出す回路は使われないと、その機能が弱まる(失われる)らしい。

 うれしかった(強い感情を伴った)経験は記憶に残りやすいということもわかった。
 (お店に注文したラーメンは、母親の作るものより、余程おいしかったようだ。)
 また、顔は記憶に残るが、名前は残りにくいらしい。
 これは、エピソード記憶と意味記憶の違いだという。エピソード記憶というのは、相手の姿かたちや自分の体験など、体感としてとらえる記憶、意味記憶は、名前、歴史、物語など文字で覚えるようなによる記憶のことである。
 エピソード記憶は本能として備わっているもので、本能というのは、脳が本来持っている人間の生存にかかわる脳の働きで、何より優先される機能である。そのためエピソード記憶の方が残りやすい構造になっていると考えられている。

 記憶は、引き出さなければ消えていく。
 (引き出しにくくなっていくと考えるべきか。一度獲得した記憶は消えない、という説もある。)
 思い出として残したいものは、引き出す行動が必要である。
 写真を見る、思い出話をするなど。だから、写真を認識する力や、記憶の内容を言葉で表現したり、聞き取ったりする力が伴っていないと、引き出すことは難しい。
 2歳だからできない、2歳半になったらできるということではなく、その子供の成長の状態による。
言葉が遅かった息子の場合は、娘が2歳半の時の域に達したのは、3歳の後半だった。
 
 さて、引き出すことによって、楽しい記憶が残せることは明らかになったが、結局のところ、夫は子どもたちをディズニーランドには連れて行かなかった。行かなかったというより、仕事が忙しくなってなかなかその時間が作れなかったのだ。(家から近かった豊島園や西武園どまりだった。)
 

≪2013年6月≫

「どうしてもディズニーランドに行きたい」と夫が言い張るので、夫の誕生日に夫婦二人でディズニーランドに行く計画を立てた。
 そのことを娘に話すと、「お母さんたちが行くなら、ディズニーシ―の方がいいよ」と言って、切符の手配から、アトラクションやショーの選択、レストランの予約まで、何から何まであレンジしてくれて、場内案内までしてくれた。待ち時間もほとんどなく、最後の水上ショーまでの一日を堪能した。
 「いつの間にか、面倒みられるようになっちゃったね」
 楽しくも、感慨深い一日だった。






 

 
 
 
 

7.2歳児の記憶

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 娘が2歳になったころ、夫はディズニーランドに連れて行ってやりたいと言った。本当は、自分が行きたかったらしい。ディズニーは映像制作者の夫にとっては子どもの時からのあこがれの人。そのディズニーが考え出した夢の国ディズニーランドに行ってみたいのだが、いい歳の大人が一人で行くのは恥ずかしいので、娘をダシにして行く魂胆だ。
 しかい、2歳の子がディズニーランドに行って、どれほど楽しめるのか。乗れるアトラクションもまだ数えるほどだし、こんなに小さいときに連れて行っても覚えてやしない、と言って私は夫をあきらめさせた。

 だって私は、そんなに小さい時の記憶ってないわよ。
 善福寺公園(かな~)に行ったときだって、覚えているのは、父にボート漕ぎを教えてもらったこと。オールが水の上をすべってしまってほとんど進まなかったってことだけだわ。その公園に行く途中のことや、母が一緒だったかかどうかとか、お弁当を食べたのかとか、何も覚えてない。小学校1年ぐらいだってこんなものよ。
 この子はまだ2歳よ。ディズニーランドに連れて行っても、何も覚えていないんじゃつまらないじゃないの。

 では、何歳ならいいのか。
 夫を沈黙させたものの、はっきりとした答えがあるわけではない。
 楽しかった経験を思い出として残せるのはどのくらいからなのだろうか。
 子どもの時の記憶というものはどのくらい残るのだろうか。
 また、どういう記憶なら残るのだろう。
 調べることができないものか、とずっと考えていた。
 そして、半年後、偶然にその方法が示された。

≪1987年10月≫


 娘2歳半。鷺宮のアパートから引っ越して、私の実家に住むことになった。娘はそれまで毎日のように遊んでいた近所の友だちとお別れをしなければならなくなった。新しく住まいとなった私の実家の近所には、あいにく娘と同じ年頃の子どもがいなかった。家の前の道は、近くの幹線道路への抜け道となっていて、危なくて遊ばせることはできなかった。必然的に家の中での遊びがふえる。
 1週間ほどたったころ、私がアルバムに写真を整理しているのを興味深そうに見ているので、たずねてみた。

 これは誰?  「トッくんに、アキラくんに、オオノくんに、シーちゃん・・・」
 かおるはどこかな? 「ここ(黄色の福)」
 真ん中の子は?  「トッくんのお友だち」
 こっちの写真は?  「シーちゃんとトモちゃん」
 何してんの?  「お話してんの」



  自転車の練習してるの?  「うん」
  誰の自転車?  「アキラくんの」
  貸してくれたの?   「うん、のっていいって」 
  アキラくんはかおるの三輪車に乗ってるね  「うん」
  うしろ押してくれてるのは?  「ターちゃん。トモちゃんのオネエチャン」





 そのうち、写真にないことも話し出す。 
 「ガレージセールやったね」    そうだね~。トッくんのおうちのガレージでね。
 「ガレージセールのあと、ラーメン食べた」  そうだね、かおるいっぱい食べたね。 
 「おいしかったね」  みんなで食べたからね。楽しかったね。
 自分の宝もの箱から、プラスチックでできたカラフルな腕輪を大事そうに持ってきて言う。
 「サヨナラしたとき、ターちゃんがくれたんだよ」 かわいい色ね。 
 「うん、きらきらしてきれい!」

 2歳半の娘は、写真を見ると友達のことをいろいろ話し出した。記憶しているということだ。そして、話をしているうちに、関連した記憶も引き出されてくる。
 小さい時の記憶があまり残らないというのは、そのことについて思い出すということがないからなんじゃないの? もしそうなら、これを続けていけば、2歳の時の記憶だって残せるかもしれない。
 というわけで、その後しばらくの間、毎週1回はアルバムを見て、娘に写真の説明をさせるようにしてみた。そのうち、下の子が生まれ、再び引越しをし、私も仕事を開始し、娘は保育園に行くようになった。時間がとりにくくなったということもあり、だんだん飽きてきたということもありで、週1が月1となり、アルバムを開く回数は減っていった。
 小学生になると、娘は友だちづきあいやら、宿題やら、TVやらで、ますます忙しくなり、とうとう年1回の誕生日だけとなった。この日だけは、意地でもやる。「成長の過程を見る」という大義名分をもって、アルバム作戦を実施し続けた。
 そして、10年がたった・・・・・・


≪10年後≫


 娘は、写真を見ると、一緒に遊んだ子どもたちの名前が言えた。そしていろいろな出来事を思い出した。
 「ターちゃんにキラキラした腕輪もらった」「ガレージセールの後で食べたラーメンおいしかった」
 腕輪も、らーめっも写真には写っていないが覚えているのだ。うれしかった経験、おいしかった記憶、ちゃんと残っている。


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 中学、高校と進むと、娘は部活動で忙しくなった。朝練に午後練、土日も練習や試合でほとんど家にいない。アルバムなど見る暇もなくなった。誕生日の祝いでのアルバム作戦もしなくなった。そうしてまた10年がたち、娘は大学生となり、部活に、アルバイトに、勉強に(?)ますます忙しい生活を送っていた。
 ある日、たまたまアルバムを整理していたおりに娘が居合わせたので、久しぶりにアルバムを見せた。
 「覚えている?」
 「うちの前に住んでいた子だよね」 顔は覚えていた。
 「引っ越しの時、腕輪もらったんだよ」 これも覚えていた。じゃあ、名前は?
 「なんていったかな~」
 10年の空白は、名前の記憶を失わせていた。ではラーメンはどうか?
 「覚えてるよ。ガレージセールの後食べたんだよね。おいしかったなあ」