2017年2月15日水曜日

6.すべり台がすべれなくなった

+++++


 かおるが初めて一人ですべり台を登り降りできたのは1才1か月のときです。まだ歩くのも上手とも言えない時期でした。
 あぶなっかしい足取りですべり台の頂上に立って笑ったりするのを見て、父親なり母親なりがすぐ近くに受け手として立ってはいたものの、そのうち足を踏み外すのではないかとハラハラしたものです。しかしかおるは、高い段の縁から自分から足を踏み出そうとはしませんでした。意外と子どもは用心深いものだと、思いました。


 
公園は歩いて数分のところだったので、毎日のように連れていってやり、1才7,8か月ともなると、もうすべり台歴半年ですから、手を離したりのめったりすることもなく、かなり上手にすべるようになりました。ところが1才9カ月になったある日、かおるはすべり台がすべれなくなっったのです。


≪1986年1月≫

★1カ月お休みしたら


 暮れから正月にかけてあわただしい日が続き、その後私が体調を崩したこともあって、1カ月ばかり公園には連れて行ってやらなかった。
 1月の暖かい日、久しぶりに公園に連れて行っってやると、かおるは大喜びで大好きなブランコのところにとんで行った。ブランコでひとしきり遊んだあと、次はすべり台。変だと思ったのは、すべり台の階段を登り始めたとき。何か手の使い方がおかしい。手すりを持ってみては離し、階段の踏板に手をかけてみてはまた手すりの方に戻したりして、なかなか登って行かない。どうも登り方がわからなくなってしまったらしい。

 そこで私が、まずここを持て、次はそこと、一つ一つ指示を出してとにかく上まで登らせた。すると今度は降りられない。頂上の手すりからすべり板の方の手すりに手を移すということがわからないらしい。手は頂上の手すりを握ったまま、身体だけすべり板の方に送ってしまうので、手すりにぶら下がったような格好になってしまう。そのうち、自分の身体が重たくなって手で支えられなくなり、ベソをかき始める始末。

 そこで今度は、すべり板への移動のしかたを指導。頂上に登ったら一回ちゃんと座って、それから手を前に伸ばしてすべり板の方の手すりをつかみ、それから身体を送り出すというように、行動に区切りをつけ、自分の行動を自覚させるようにしてやらせた。
 階段の登り方、すべり板への移動の仕方、何回も繰り返して練習させた。かおるは「ここでいい?」「ここでいい?」と聞きながら一生懸命にやるが、その日はとうとうできるようにはならなかった。



★やり方を確認しながら再挑戦


 それからしばらくの間、すべり台で遊ぶとき、かおるは「ここ? こうやるの?」と私に確かめながらやった。1週間近くも練習したころ、かおるはやっと一人ですべれるようになった。
 その後、天候が悪かったり、私が忙しかったりして、また1か月近く公園につれていってやれなかった。
 しかし、今度は大丈夫だった。かおるに「どうやるんだっけ?」と聞くと、「こうやって」とか「ここもって」などと言いながら、私に助けを求めることなく、すべり台を無事昇り降りすることができたのである。






+++++

 

★できていたことができなくなるということ


 子どもの成長というものは、階段をずっと登っていくようなものだと、と思っていました。
 この「すべり台事件」は、その考えを改めさせられた出来事でした。
 できていたことが、できなくなるということもあるのです。
 これは大きな発見でした。

 しかし、できなくなったのは、ただ単純に前のやり方を忘れてしまったということではなく、子どもの成長が絡んでいたと考えています。1カ月という時間をおいてすべり台に再会した時、かおる自身が変化していたからではないかと思うのです。

 かおるの取り組んだすべり台は大きい子向けのもので、手すりの巾が広いものでした。最初の1才1カ月のときは、両手を広げて全く手は届きませんでしたから、かおるは無自覚に一方の手は手すり、もう一方の手は階段の踏板に手をかけて登ったと思います。そして、それから半年間はずっとその登り方で登っていたのです。

 ところが、できなくなったときは、いきなり両手で手すりをつかんだのです。最初の時から8か月たっており、身体も大きくなり、両手で手すりをつかめるようになっていたのです。また、観察力もついてきています。そんなかおるが久しぶりにすべり台を見て、手すりの役割を認識し両手でつかんだ。ところが、その時点でのかおるの手の長さでは、手すりを握ってしまうといっぱいいっぱいで身体を動かす余裕がなくなります。ですから、手すりを握ったそのとたんに動けなくなってしまい、混乱して、どうしてよいかわからなくなった。そんなことでなかったかと思うのです。
 成長したゆえに、行動のしかたが変わり、かえってできなくなったというわけです。

 スポーツなどでは、それまでできていたことができなくなってしまう、いわゆるスランプというものがありますが、それはこういうことであるのかもしれない、と思います。
 かおるのスランプ(?)は、自分の行動を自覚して行動するということで、脱することができました。スランプが何たるかはともかくとして、行動の自覚の重要性を認識した出来事でもありました。