2017年9月6日水曜日

13.無視されて大人になる

≪1994年6月≫


 新座に越してきてから、約2か月がたったころのこと。
 子どもたちもだんだん、この地での生活になじんできた。

毎朝、通学班8人が並んで小学校まで7~8分ほどの道のりを歩いていく。先頭が6年生、その後は年の小さい順、1年生(耕平)、2年生、3年生(かおる)、4年生2人、最後に5年生2人が続く。
 世田谷に住んでいたころの通学班は、朝登校するだけのまさに通学班だったが、こちらの通学班は放課後もよく一緒に遊ぶ、今どきでは珍しい異年齢の遊びグループだ。塾に行っている子が1人だけだったからかもしれないし、他の学区域とは交通量の多い道路を隔てて独立した区域のようになっていたからかもしれない。

遊びのリーダーは、路地をへだてたお隣の「ユウやん」5年生。登校班では2番目の年長だ。(写真では後ろから2番目)いろいろな遊びを知っていて、小さい子の面倒見がいい。塾には行っていないようで、いつもいろいろな年の子を集めて遊ぶ。最近ではあまり見かけなくなったタイプの男の子だ。引っ越してきたばかりで一番ちびの耕平も、どうやら仲間に入れてもらって遊んでいる。
 
 
 
 
6月の暑い日、耕平が家に駆け込んできて言った。「マリオのパンツある?」
マリオのパンツとは、耕平お気に入りのマリオブラザーズの柄のトランクス型の下着のことだ。最近みつけて、ファミコンゲームのマリオに熱中している耕平はきっと気に入るだろうと買ったもの。案の定、大喜びで、ズボンをはかずにパンツのままで仕事中の父親に「マリオのパンツだよ~」と見せに行ったほどである。
「おお、いいなあ。お父さんもほしいよ」などと言われてご満悦だった。それ以来、大事にはいていて、周囲の親しい人、叔母ちゃんやら年長のいとこやらに会うたびにみせびらかしていたそのパンツだ。
 
「あるよ。タンスの引き出し見てごらん」
耕平は、引出しからマリオのパンツを引っ張り出し、はき替えると再び家を飛び出していった。
どうするのかと様子を見ていると、耕平はユウやんのところに走り寄った。
そして、ズボンを少し下げてパンツを見せて、自慢そうに言った。
「これ、マリオのパンツなんだよ」
「ふ~ん」ユウやんの反応はそれだけだった。
そしてすぐ、「さあみんな○○しようぜ~」と掛け声をかけた。
 
耕平はしばらく呆然としていたが、やがて遊びの輪の中に入っていった。
 
 
 

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 小さい子どもに対して周りの大人たちは、その子のご機嫌を取りがちになる。関心を持ちそうな話をしたり、その子が話しかけてくれば、できるだけその意に添うように答えてやるといった風だ。我が家においても、少なからずそういう雰囲気があった。

ユウやんの登場は、耕平にしてみれば、カルチャーショックに近かったのではないだろうか。関心がなければ無視する、もっと言えば否定さえする人が現れたのである。耕平はこの出来事を、一体どう受け止めたのだろう。

私は、この出来事について、ついに耕平には何も聞かなかった。耕平も何も言わなかったが、この日、耕平は少しだけ大人の世界に入ったのだと思う。

 

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耕平を大人の世界に近づけてくれたユウやんは、近所の子どもたちにとって愉快なアニキだった。ユウやんの家には、近所の子がいつも出入りしており、耕平も、すっかりユウやんに傾倒していた。ユウやんと一緒だと、ただのシャボン玉遊びだって面白くなるようだった。

ユウやんが6年生になって、通学班の班長になったとき、ユウやんは通学班の集合の仕方を変更した。それまでは、ただ時間と場所を決めていただけだった。場所は我が家の前。皆揃うまで、ただバラバラと立っていた。

ユウやんは、通学班の集合を貨物列車の荷物の積み込みに見立てた。子ども一人一人の位置決めをし、順々に子どもがその場に入っていくようにした。子どもたちが、来たものから順に決められた自分の位置に並び、空いているところに後から来た子が入ってきて全員そろうと、先頭のユウやんが「出発進行!」と掛け声をかけ、車掌役のケンちゃんが「オーライ」というと、子どもたちは、列車になったつもりで行進していくのだった。
ユウやんは、学校の決まりである通学班も、愉快な遊びにしてしまったのである。
 
2年後、我が家は、道路の反対側の地区に新しく建ったマンションに引っ越し、借家生活を解消した。
ユウやんとはそれ以来会っていない。もう30歳半ば、父親になっているかもしれない。
どんな大人になっているのだろうか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

2017年7月19日水曜日

12.お手伝い

≪1989年3月 : かおる3歳11か月≫ 



『お手伝い』、これが今かおるが一番気に入っている家の中での遊びです。

『お手伝い』にも『お料理』『お掃除』『お裁縫』といろいろあるのですが、一番好きなのは、『お料理』です。これは、自分の力を発揮したという実感が一番あって、なおかつ味見ができるからです。くいしん坊のかおるにとってはたまらないところです。

 かおるが一番初めにつくったのがスクランブルエッグでした。卵をかきまわして、熱くしたフライバンの中にあけ、ハシでかきまわします。あっという間に黄色くふわふわしたスクランブルエッグができました。おとうさん、おかあさんにおいしいと言われ、かおるは大満足です

 三才の子供に火を使う料理はあぶないかなと、最初は多少心配でしたが、かおるがあまりやりたいとせがむので根負けしてやらせてみたのですが、予想以上に注意深くやるのです。そして、このごろ口答えをするようになってきているかおるが、やりたい一心でかわいそうになるくらい私の言うことを素直に聞きます。

 野菜いため、ギョウザ、ヤキソバ、チヤーハン、カレーライス。
 先日はフライにも挑戦しました。魚に小麦粉をつけて卵の中にひたし、さらにバン粉をつける。それをお手伝い熱した油の中にそうっと入れる。きつね色に揚がったのを長いはしでとりだすのは少し難かしかったらしく、だいたいは私がやりましたが、ほぼ全工程にわたって手がけました。

 鍋にさわりそうになったとき、ついどなったりしましたが、かおるは面白さでいっぱいで、そんなことは少しも気にならなかったようです。
 皿に並べたフライを眺めてかおるは実に満足そうでした。
 そして、ニコニコしながらいうのです。
「いつでもお手伝いしてあげるからね」
 
 

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ここに書かれた『お手伝い』は、義務感の伴ういわゆる『お手伝い』とはちがいます。
『お手伝い』という名の遊びと言った方が良いのかもしれません。
子供にとって一番楽しいのは、自分の能力をせいいっぱい使って何かをつくりあげたという実感のあることのようです。それが『最高の遊び』なのでしょう。
かおるは今でも料理が好きで、忙しい合間にも楽しみながら作っています。(そう上手だというわけではありません。それは手本とする対象が名人というわけではなかったので、仕方のないことです。)
お手伝いということでなく、一緒に楽しくやること。家の中のいろいろな仕事を遊び感覚でやる工夫をする。これは結構手間もかかるし、注意も必要なので面倒なのですが、あるところまで行くと自分でどんどんやるようになるので、それからはずっと楽になります。料理以外ももっと力を入れるべきだった・・・、後悔先に立たずです。

 


2017年6月22日木曜日

11.人見知り

≪1989年3月≫

 耕平(1歳3か月)はあまり人見知りをしません。
 誰にでも愛想がよいのです。
 病院の待合室などで、気がつくと隣の人に「ワーワー」と話しかけていたりします。
 何気なく耕平の方を見たら、あまり耕平が笑うので、しかたなくずっとあやし続けてくれたおじいさんもいました。スーパーのレジのおばさんともすっかり仲良しです。

 正月に風邪で大熱を出して以来1カ月ほど微熱が続いたので、小児科のお医者さんに診てもらっているのですが、そこでも先生に身振り手振りで話しかけたり、看護婦さんにニコニコして手を振ったりしています。その様子を見ていた先生は、お母さん「この元気なら心配することないですよ」と薬もくれません。
 近くに小さい子どもがいようものなら、もう喜んで「ワーワー」と大声を上げながら近寄り、気安く顔をなでたり服を引っ張ったりして親愛の情を示します。

 姉のかおる(もうすぐ4歳)の同じ年頃は対照的でした。我が家から徒歩15分のところに住んでいる野方のおじいちゃんおばあちゃん(私の両親)には1週間に一度は遊びに行っていたので大丈夫だったのですが、1年に数回しか会わない祖師谷のおじいちゃんおばあちゃん(夫の両親)二は抱かれるのもいやがるぐらいでした。公園に行ってもいつも一緒に遊んでいる子どもは大丈夫ですが、見慣れぬ子がやってくるとしり込みするというふうでした。

 「同じきょうだいなのに、どうしてこんなに違うのか」なんて言葉をよく聞きますが、よく考えてみれば、親だけのところに倦まれてきた子と、上にきょうだいがいるところに生まれてきた子とでは、もう明らかにその社会環境は違います。いつも自分以外の子供がおり所で育っていく子は、子どもへの警戒心は少ないはずです。特にあおるは耕平になかなか親切でしたから、なおさらでしょう。
 耕平が生まれた頃、私たち一家は、私の実家に同居していたので、耕平の周りにはいつもおじいちゃんおばあちゃんがいました。また、歩いて12、3分のところに住んでいる私の弟一家ももよくやってきていて、従兄の龍太くん、周人くんとも顔なじみでもありました。

 その後しばらくして、夫の両親の家に近い世田谷に引っ越し、今度は祖師谷のおじいちゃんおばあちゃんのそして、夫の妹夫婦一家としょっちゅう顔を合わせるようになりました。従姉たちは二人とも10歳ほど年が上で下から、よく遊んでもらいました。
 生まれてからこのかた、耕平はいつも複数の人間がいる中で、複数の人間に世話をしてもらって育ってきたのです。

 それにくらべると、核家族で、私と二人きりの生活が多かったかおるの場合は、他人に対する免疫がなかったということでしょうか。
 かおるが人見知りをしたからといって、耕平に対して新たな対策をしたわけではありません。
 むしろ、かおるには人に慣れさせようと毎日のように連れて行った公園も、耕平の場合は忙しさにとりまぎれてあまり連れて行ってはいません。
 複数の人間の中で、その世話を受けて育つ。育つ環境のちがいで、子どもの性格・行動のしかたがこんなにも違ってくるのかと、あらためて驚かされています。どんな環境を子どもに与えてやれるか、そこに親の責任を感じます。


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 人見知りは生後4か月ぐらいから始まります。
 人見知りをするというのは、それだけ脳の働きが成長したという証拠です。
 家族のようにいつも自分の近くにいて世話をしてくれる人(=安全なもの)と、見知らぬ者(=危険かもしれないもの)との区別ができるようになるからです。
 ですから、決して困ることではなく、成長したと喜ぶべきことなのです。

 他人にいきなり抱かれて赤ちゃんが泣くのは、「いつもの人じゃない!心配だ!」と言っているのです。言葉を話せない段階の赤ちゃんのコミュニケーション手段は「笑う=快・安心」と「泣く=不快・不安」しかないのです。
 その不安を取り除かれれば、赤ちゃんは泣かなくなります。

 しばらく一緒に遊んだり、おいしいものを食べさせたり、「いないないばあ」など赤ちゃんが興味をいだくこと(例えば)をしてやったり、といったようなことがうちの子には効果がありました。
 この人は自分に「快」を与えてくれる人(→安心)、というイメージを作ってやるということだと思います。



 
 

 
 

2017年5月15日月曜日

10.オジイチャンをオジイチャンと確認するまで


かおるが一才四カ月の頃、夫の実家を私の父が訪れたことがありました。そのとき、私とかおるはたまたま夫の実家に遊びに行っていましたので、そこに私の父が訪ねてきたという形になりました。
 
 

「オジイチャンだよ 」


かおるは、応接間に野方のオジチャンの姿をみつけました。ところが、いつもすぐにオジイチャンのところにとんでいくかおるが、皆に「オジイチャンだよ」と言われても一向に近づかないのです。それどころか私の手を引っ張って茶の間に戻ってしまったのです。二、三分たって今度は、私の手を引っ張って応接間の入り口まで行きました。が、中には入りません。

しばらくオジイチャンをみていましたが、また戻ってしまいました。オジイチャンは知らぬふりで皆と話しています。何分かたってまた、私の手を引っ張って応接間の入り口まで行き、今度は少し中に入りました。しばらくしてまた茶の間に戻ります。
 
 

ほんとにオジイチャン?


 次は、応接間の中まではいりました。そしてさっきまで握りしめていたオモチャの自動車や置いてあった積木で遊びだしました。場所は先ほどより少しオジイチャンに近いところでした。そのうち、自動車がオジイチャンの足もとに行ってしまいました。かおるはオジイチャンの前を通って自動車をとりに行きましたが、オジイチャンには知らぬふりで、通り過ぎてしまいました。おやおやとみていると、次は、オジイチャンの隣りの椅子によじのばりました。そして背後の壁にかけてあるボードに色とりどりのマグネットをとったりつけたりして遊び出しました。オジイチャンの方を見るともなく見ているようです。そうしているうちマグネットが一つ、オジイチャンのところに落ちました。オジイチャンはそれを拾ってかおるに渡しました。するとかおるは、実に自然な態度で受けとり、そのままオジイチャンの膝の上に載ったのです。かおるがオジイチャンを発見してから約一時間が過ぎていました。
 
 
 

1歳児の観察行動


 部屋には夫の両親と妹たち、私の父と弟の妻子らがいましたが、この間、皆つとめて知らぬふりで特に誰も無理にかおるとオジイチャンをなじませようとはしませんでした。ですから、これはすべてかおる自身が生み出した行動といってよいでしょう。
かおるは、いるはずのない場所にオジイチャンらしき人の姿を見出しました。いつも和服を着ているオジイチャンですが、この人はグレーのスーツを着ています。この人は、本当にオジイチャンだろうか。かおるは、その人がいつものオジイチャンであるか実に用心深くさぐり、それが確かにそうであることを見きわめたとき、はじめて膝の上に乗ったのです。オジイチャンと思われる対象を、遠くから、また右から左から前から、さらに接近して見るという、その観察行動は、あたかも野生動物がはじめてのものにふれたときの行動を見るようでした。それはその場に居合せたもののほとんど共通の思いでした。

 

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このときから1年後に、この観察行動について私は、「一歳半にして、こうした観察をする方法を生み出す力が既に育っているのかと驚いた」と書いています。しかし今は、これはむしろ動物としての人間の本来の力であったのではないか、と考えています。人間は生まれたときはオッパイを飲むことと排泄することしかできません。そこから始まり、ほとんどすべてを生活し行動する中で獲得していく。まさに人間は「学習する動物」です。そのために人間の脳は、本質的に主体的に情報を取りに行くという性格(働き方)をもっています。幼い子どもが親に「あれなあに、これなあに」と聞くのはそのためです。
このときのかおるの行動もそれと同じ類型の行動だったのではなかったかと思うのです。
 本来子どもは、自分でそれが安全か否か、また何であるか、そういうことをを調べる力、調べようとする性格があるのではないか。それを大事に育ててやりたい、と考えます。あまり教えすぎ、与えすぎは、未知のものを自分で調べ切り開いていく、そういう力を子どもから奪うことになってしまうのではないか、そういう気がしています。

 

2017年3月16日木曜日

9.おじいちゃんの“まずいアメ”

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 子どもが言葉を習得していく過程は、実に発見が多く、おもしろい期間であったと思います。
 私は2人の子に、いわゆる赤ちゃん語は使いませんでした。子どもが自然に言葉を覚え使うようになる過程に興味があったからです。結果、赤ちゃんは自然と「赤ちゃん語」になるのだということがわかりました。

 たとえば、私たちは「パパ」「ママ」ではなく、「おとうさん」おかあさん」という言葉を使っていましたが、娘は2歳ぐらいまでは、父親のことを「タータ」と呼び、私のことは「アーチャン」と呼んでいました。周りの誰もその言葉は使わなかったので、娘自身が聞き取った音(おん)を、自分が表現できる音で表現した言葉だったと考えられます。
 その表現に対して、こちらは合わせることもなく、また娘の言い方を直したということはありませんでしたが、保育園に行くようになった3歳のころにはもう「おとうさん」「おかあさん」というようになっていました。

 まったくわけのわからない状態から、子どもは、生活の中で使われる言葉を繰り返し聞いて、その意味を把握し、約束事をつかみ取り、使っていきながら言葉を獲得していきます。その過程では誤用も多々あり、それが親をあわてさせたり、周囲に笑いをもたらしたり・・・


≪1989年12月~≫

 耕平(満2歳にあと少し)は、“野方のおじいちゃん”(私の父)が大好きである。
 おじいちゃんも、どこかひょうきんな耕平を大変かわいがってくれていて、枕元にいつも耕平の写真を置いている。
 おじいちゃんは病気で、近頃は奥の部屋にいつも布団が敷いてある。そしてその枕元には、おじいちゃん愛用の文房具や、眼鏡やらの必需品が置いてある。その中の一つに缶入りの浅田飴がある。青い線の入ったステンレスの丸い缶で、ミント味のアメが入ったあれだ。
 おじいちゃんは呼吸器系が弱いので、よくその缶からアメを出して口に入れている。
 耕平はそれに目をつけた。

 「それなあに?」
 「アメだよ」
 「ちょうだい」
 おじいちゃんは、まだ2歳前の耕平にはミント味は無理だと考えて言った。
 「これはね、まずいアメなんだよ」
 「ちょうだい」
 あくまで要求する耕平。
 しかたない。なめてみればわかるだろうと、おじいちゃんは一つ取出し、耕平にやる。

 ところがどっこい、耕平はその味をいたく気に入ってしまったのだ。
 一つなめ終わってしまうと、おじいちゃんにせがんだ。
 「もっと」
 「おおそうか、耕平も好きか」
 おじいちゃんは喜んで、耕平にもう一つやり、自分も一つ口に入れる。二人はアメ友達になった。

 それ以来、私が耕平を連れて実家に行くと、耕平はすぐにおじいちゃんのところに飛んでいく。そして言う。
 「“まずいアメ”ちょうだい!」
 まずいアメという名前になってしまった浅田飴。二人は一緒にアメをなめている。耕平は言う。
 「“まずいアメ”って、おいしいねえ」
 かたわらで、おばあちゃんが笑っている。
 

2017年3月14日火曜日

8.2歳児の記憶 +++

 長い実験の結果、幼児期の記憶も残せることがわかった。
 記憶を引き出し続ければ残るのである。
 「記憶」と「記憶を引き出す回路」は使い続けることによって、保持されるのである。
 「記憶」そのものは永久的に残るという説もある。ただ、それを引き出す回路は使われないと、その機能が弱まる(失われる)らしい。

 うれしかった(強い感情を伴った)経験は記憶に残りやすいということもわかった。
 (お店に注文したラーメンは、母親の作るものより、余程おいしかったようだ。)
 また、顔は記憶に残るが、名前は残りにくいらしい。
 これは、エピソード記憶と意味記憶の違いだという。エピソード記憶というのは、相手の姿かたちや自分の体験など、体感としてとらえる記憶、意味記憶は、名前、歴史、物語など文字で覚えるようなによる記憶のことである。
 エピソード記憶は本能として備わっているもので、本能というのは、脳が本来持っている人間の生存にかかわる脳の働きで、何より優先される機能である。そのためエピソード記憶の方が残りやすい構造になっていると考えられている。

 記憶は、引き出さなければ消えていく。
 (引き出しにくくなっていくと考えるべきか。一度獲得した記憶は消えない、という説もある。)
 思い出として残したいものは、引き出す行動が必要である。
 写真を見る、思い出話をするなど。だから、写真を認識する力や、記憶の内容を言葉で表現したり、聞き取ったりする力が伴っていないと、引き出すことは難しい。
 2歳だからできない、2歳半になったらできるということではなく、その子供の成長の状態による。
言葉が遅かった息子の場合は、娘が2歳半の時の域に達したのは、3歳の後半だった。
 
 さて、引き出すことによって、楽しい記憶が残せることは明らかになったが、結局のところ、夫は子どもたちをディズニーランドには連れて行かなかった。行かなかったというより、仕事が忙しくなってなかなかその時間が作れなかったのだ。(家から近かった豊島園や西武園どまりだった。)
 

≪2013年6月≫

「どうしてもディズニーランドに行きたい」と夫が言い張るので、夫の誕生日に夫婦二人でディズニーランドに行く計画を立てた。
 そのことを娘に話すと、「お母さんたちが行くなら、ディズニーシ―の方がいいよ」と言って、切符の手配から、アトラクションやショーの選択、レストランの予約まで、何から何まであレンジしてくれて、場内案内までしてくれた。待ち時間もほとんどなく、最後の水上ショーまでの一日を堪能した。
 「いつの間にか、面倒みられるようになっちゃったね」
 楽しくも、感慨深い一日だった。






 

 
 
 
 

7.2歳児の記憶

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 娘が2歳になったころ、夫はディズニーランドに連れて行ってやりたいと言った。本当は、自分が行きたかったらしい。ディズニーは映像制作者の夫にとっては子どもの時からのあこがれの人。そのディズニーが考え出した夢の国ディズニーランドに行ってみたいのだが、いい歳の大人が一人で行くのは恥ずかしいので、娘をダシにして行く魂胆だ。
 しかい、2歳の子がディズニーランドに行って、どれほど楽しめるのか。乗れるアトラクションもまだ数えるほどだし、こんなに小さいときに連れて行っても覚えてやしない、と言って私は夫をあきらめさせた。

 だって私は、そんなに小さい時の記憶ってないわよ。
 善福寺公園(かな~)に行ったときだって、覚えているのは、父にボート漕ぎを教えてもらったこと。オールが水の上をすべってしまってほとんど進まなかったってことだけだわ。その公園に行く途中のことや、母が一緒だったかかどうかとか、お弁当を食べたのかとか、何も覚えてない。小学校1年ぐらいだってこんなものよ。
 この子はまだ2歳よ。ディズニーランドに連れて行っても、何も覚えていないんじゃつまらないじゃないの。

 では、何歳ならいいのか。
 夫を沈黙させたものの、はっきりとした答えがあるわけではない。
 楽しかった経験を思い出として残せるのはどのくらいからなのだろうか。
 子どもの時の記憶というものはどのくらい残るのだろうか。
 また、どういう記憶なら残るのだろう。
 調べることができないものか、とずっと考えていた。
 そして、半年後、偶然にその方法が示された。

≪1987年10月≫


 娘2歳半。鷺宮のアパートから引っ越して、私の実家に住むことになった。娘はそれまで毎日のように遊んでいた近所の友だちとお別れをしなければならなくなった。新しく住まいとなった私の実家の近所には、あいにく娘と同じ年頃の子どもがいなかった。家の前の道は、近くの幹線道路への抜け道となっていて、危なくて遊ばせることはできなかった。必然的に家の中での遊びがふえる。
 1週間ほどたったころ、私がアルバムに写真を整理しているのを興味深そうに見ているので、たずねてみた。

 これは誰?  「トッくんに、アキラくんに、オオノくんに、シーちゃん・・・」
 かおるはどこかな? 「ここ(黄色の福)」
 真ん中の子は?  「トッくんのお友だち」
 こっちの写真は?  「シーちゃんとトモちゃん」
 何してんの?  「お話してんの」



  自転車の練習してるの?  「うん」
  誰の自転車?  「アキラくんの」
  貸してくれたの?   「うん、のっていいって」 
  アキラくんはかおるの三輪車に乗ってるね  「うん」
  うしろ押してくれてるのは?  「ターちゃん。トモちゃんのオネエチャン」





 そのうち、写真にないことも話し出す。 
 「ガレージセールやったね」    そうだね~。トッくんのおうちのガレージでね。
 「ガレージセールのあと、ラーメン食べた」  そうだね、かおるいっぱい食べたね。 
 「おいしかったね」  みんなで食べたからね。楽しかったね。
 自分の宝もの箱から、プラスチックでできたカラフルな腕輪を大事そうに持ってきて言う。
 「サヨナラしたとき、ターちゃんがくれたんだよ」 かわいい色ね。 
 「うん、きらきらしてきれい!」

 2歳半の娘は、写真を見ると友達のことをいろいろ話し出した。記憶しているということだ。そして、話をしているうちに、関連した記憶も引き出されてくる。
 小さい時の記憶があまり残らないというのは、そのことについて思い出すということがないからなんじゃないの? もしそうなら、これを続けていけば、2歳の時の記憶だって残せるかもしれない。
 というわけで、その後しばらくの間、毎週1回はアルバムを見て、娘に写真の説明をさせるようにしてみた。そのうち、下の子が生まれ、再び引越しをし、私も仕事を開始し、娘は保育園に行くようになった。時間がとりにくくなったということもあり、だんだん飽きてきたということもありで、週1が月1となり、アルバムを開く回数は減っていった。
 小学生になると、娘は友だちづきあいやら、宿題やら、TVやらで、ますます忙しくなり、とうとう年1回の誕生日だけとなった。この日だけは、意地でもやる。「成長の過程を見る」という大義名分をもって、アルバム作戦を実施し続けた。
 そして、10年がたった・・・・・・


≪10年後≫


 娘は、写真を見ると、一緒に遊んだ子どもたちの名前が言えた。そしていろいろな出来事を思い出した。
 「ターちゃんにキラキラした腕輪もらった」「ガレージセールの後で食べたラーメンおいしかった」
 腕輪も、らーめっも写真には写っていないが覚えているのだ。うれしかった経験、おいしかった記憶、ちゃんと残っている。


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 中学、高校と進むと、娘は部活動で忙しくなった。朝練に午後練、土日も練習や試合でほとんど家にいない。アルバムなど見る暇もなくなった。誕生日の祝いでのアルバム作戦もしなくなった。そうしてまた10年がたち、娘は大学生となり、部活に、アルバイトに、勉強に(?)ますます忙しい生活を送っていた。
 ある日、たまたまアルバムを整理していたおりに娘が居合わせたので、久しぶりにアルバムを見せた。
 「覚えている?」
 「うちの前に住んでいた子だよね」 顔は覚えていた。
 「引っ越しの時、腕輪もらったんだよ」 これも覚えていた。じゃあ、名前は?
 「なんていったかな~」
 10年の空白は、名前の記憶を失わせていた。ではラーメンはどうか?
 「覚えてるよ。ガレージセールの後食べたんだよね。おいしかったなあ」